腰ぬけ愛国談義
- 作者: 半藤一利,宮崎駿
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/08/06
- メディア: 文庫
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スタジオジブリでおなじみの宮崎駿氏と、半藤一利氏の対談を書籍化した作品。
宮崎氏の作った「天空の城ラピュタ」や「紅の豚」は結構好きで、今もときどき録画を再視聴することがある。そんな訳で、ある人がこの本を貸してくれたのだ。
戦艦の艦橋は役人根性でデカくなった、あの艦橋の高さは日本海軍がだめになった証拠などと言っているが…
なぜ戦艦の艦橋が高くなったのか。丸い地球で遠くを観測するためには、高い位置から観測しなければならないからである。主砲の射程が伸びれば、それに伴い艦橋が高くなるのは当然である。それを役人根性に帰するというのはどうなのか。
旧日本海軍の幹部達が役人根性の染みついた駄目集団だというのは間違いではないと思うが、それを見当違いな事柄で指摘したのでは説得力が無くなる。ノンフィクションとフィクションを上手に織り交ぜた、百田尚樹氏の「永遠の0」の方がよっぽど説得力がある。
あと、ナチスのゲーリングが戦闘機に「屠殺機」という名前を付けたことに対し嫌悪しているのだが…
ツバメ(Me262)だのミミズク(He219)だのモズ(Fw190)だのは覚えがあるものの、「屠殺機」なんてあったかな〜と思って調べたところ、あくまで推測ではあるが、メッサーシュミットBf110などの駆逐機(敵爆撃機を駆逐する戦闘機)の「駆逐」を「屠殺」と捉えたらしい…
ドイツでは「駆逐」と「屠殺」が同じ単語なのかどうかは知らないが、少なくとも日本でBf110を「屠殺機」と紹介しているのは見た事がない。Bf110に期待された役割からしても、家畜を殺す「屠殺」ではなく、(爆撃機を)追い払う「駆逐」と訳す方が自然である。
※追記
ダイさんより
「FW190の愛称が百舌で英語だとブッチャーバードになるのでその事を指しているのでしょうか?」
というコメントを頂きました。ありがとうございます。
しかし、Fw190を指しているのなら「屠殺機」ではなく「”屠殺鳥”機」とでも紹介するべきであり、やはり宮崎氏の物言いは強引かつ無理があると思います。
また、半藤氏がP-51ムスタングに掃射されたという実体験を語るが、すかさず宮崎氏が「似たようなことを、日本軍も散々やったのでしょうね。」などと話を継ぐ。私は、日本の戦闘機が民間人をところ構わず掃射したというエピソードなんて聞いたこともないし、宮崎氏自身も具体的なエピソードを出さないのだが、旧日本軍憎しゆえか「日本軍も散々やった」と言い放つ。感情にまかせて適当なことを言い捨てる行為は、いわゆるネトウヨと何が違うのか。
そして、「所沢航空発祥記念館」に来たアメリカ人所有の零戦までにケチをつける。戦利品を見せびらかすような行為は不愉快だということらしい。そのアメリカ人所有者が、脆弱な零戦を飛行可能な状態にするために払った努力と犠牲に対するリスペクトは無いようである。
一方で、イギリス人がドイツの戦車を直したりしているのを「戦争の怨讐をこえて、歴史的に貴重なものは取っておいたほうがいいっていう考え〜(中略)〜大人でいいなあ、と思いますね。」などと語っている。ここの部分は、何と上に挙げた所沢航空発祥記念館の零戦に対する苦言と見開きページになっているのである(060頁と061頁)。掌返しが早すぎるにも程がある。
「歴史的に貴重な零戦を飛べる状態で取っておき、せっかくだから日本人にも見せてあげよう。」と思って実行したら、当の日本人に文句を言われるのだ。そりゃイエローモンキーと馬鹿にされても仕方がない。
日本について、脇役でいい、小国主義でいい、それが「腰ぬけ愛国論」とのことだが…
そもそも日本が世界史の主役になったことなんてあっただろうか?だから脇役でいいというのは「そりゃそうでしょ」と言うしかないが、GDP世界第3位の国に対して「小国主義でいい」って…。GDPが萎んで苦しむのは金持ちではなく一般国民である。名も知らぬ人々の幸福など、今や大金持ちになられた先生の知るところではないと仰りたいのなら、あぁそうですかと力無く返答するしかない。
「私は曲がって醜いが、詩はまっすぐで美しい」
ある詩人の言葉である。クリエイターは本人自体ではなく創作物で評価するべきなのだろう。だから、この本を読んだ感想は以下の通りである。
「いいから黙って子供向けのアニメを作っていて下さい。」